芦屋のイタリア料理とイタリアワインのお店

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COLUMNコラム

まさかの2ヶ月連続更新です。

まさかの2ヶ月連続更新です。いっきに単行本出版めざして頑張ります。  6年近く勤めたイタリア料理店(ここでのエピソードも今後実名で披露しちゃいます。)を退職し3日と空けずに養豚場に働きに行きました。出発前に気合を入れようと人生初の丸坊主にし、当時乗っていた車を売り払い、2万円で中古の原付を買いました。 夜11時ごろに神戸発川之江行きのフェリーに乗り、当時友達以上彼女未満だった女の子が見送りに来てくれ、今思うとなにも大層なことは無いんだけど、なんか泣きたいような武者震いしてるような妙な気持ちでした。   朝、6時半ごろ愛媛県に着くと生憎の雨。もちろん雨合羽があるわけでもなく、びちゃびちゃになりながら原付に乗り、(盗んだバイクで走り出すー)と尾崎豊の15の夜を熱唱、いや絶叫しながら養豚場に向かいました。  回帰線(尾崎豊のアルバム名)の全曲を大方歌いきった頃、何とか養豚場に着きました。途中何回やめとこかなと思ったか分かりません。今から何せなあかんか想像すら出来ませんでしたから。。。  当時はまだタバコを吸ってたんですが、敷地に入る前、連続で3本ほどタバコを急いで吸い4本目を見てあかん、切り無いと敷地に入っていきました。 なんとなく着く時間を伝えていたので、なんとなく待っていて下さった養豚場のご主人は、ほんまに来よったなーと笑顔で迎えてくれ、次の二言目に僕は腰を抜かしました。(イヤーまさかホンマに来るとわなー!若いのに大したもんや。この養豚場継いでくれへんか?) 。。。経営難か? 続く

僕がジラソーレをオープンして・・・

僕がジラソーレをオープンして料理の修業に来た2人目の犠牲者、大神将輝君がめでたく来月6月11日に独立オープンします。
2人目といえど、1人目の子はすぐ辞めてしまったので大神君が実質、最初のスタッフでした。
大体、子育てでも一人目の子は厳しく、二人目、3人目はだんだん優しくなるといいますが、大神君も例にもれずそれはそれは厳しく育てられました。
今年は景気の低迷や、インフルエンザと暗いニュースが続いていますが、今の僕にとって自分の事のように嬉しい明るいニュースです。あまりに嬉しいので、お節介にもオープニングを手伝いに行きます。そのため6月9日(火)のお昼は臨時休業します。
6月8日(月)にレセプションをするそうです。手伝いと言うより、大神君と僕のコラボです。
一般のお客様にもお席があるか僕には分かりません。ご興味のあるかたはお問い合わせ下さい。
 
オステリア オオガミ
福岡市中央区大宮1-7-8 NEOビル 1F
092-531-3550
ジラソーレ出身の料理人が初めて独立します。僕も自分が店を始める時は心配で寝れない夜が続きました。きっと彼もいま不安とヤル気で錯乱してると思いますが、独立とは到達でなくスタートです。博多の皆様、どうか優しく、厳しくオステリア オオガミを見守ってください。

Tさん、Oさん、ついにコラムを更新する勇気が沸いて来ました。

Tさん、Oさん、ついにコラムを更 新する勇気が沸いて来ました。どうも2月と9月にやる気が沸くようです。
 
子豚の丸焼きを将来自分の店で出したい!と新たな目標ができ、イタリアに修行を行く決意を固めた頃の僕は、うっとうしいくらい熱い青年でした。 仕事している以外は料理書を貪り読み、休日はイタリア語の学校に午前、午後2つ通い、そのまま飲みにいっては朝までその日その場で知り合うおっさん達といろんなテーマで激論を交わし、そのまま仕入れに行く日々でした。 今考えるとありえない話ですが、当時1人で飲みに行って話し相手に困る事はまずなかったと思います。その店のマスターなり、横のお客さんなり誰かとは仲良くなれましたね。知らない方にもよくおごってもらいましたし、よく説教されました。 そんな環境、経験は将来商売するのに絶対大切だと、道場破りのように色んな店に飲みに行き、そこのマスターや常連さんと色んな話をしました。
これを書きながら懐かしく思っていますが、今の若いコックの見習いはこの辺が足りてないですね。
誰かに無茶苦茶憧れたり、何かしたくて堪らんことがあるとか、今これをするのが楽しくて堪らんとか。。。 世の中も大らかでしたね。酔っ払ってる若者が青年の主張を語りだしても、大人は笑って聞いてくれていました。 青年の主張はどんどんエスカレートし、そのうち興味は農業に向かいました。 原材料から作るのが究極や!とイタリア料理だし、トマト農家で働きたいなーという興味から農業のことを考え出し、最終的には子豚の仕入れルートをついでに開拓しようと養豚場で働いてみたいと思い出しました。 ここで養豚場探しを手伝ってくれたのが、前号に登場した小西シェフでした。
当時四国で仕事をしていた小西シェフに、イタリアに行く前に数ヶ月農家で働きたい、出来れば養豚場がいいと相談したら、ついに気が狂ったんかと大変喜んでくださり、すぐに愛媛県にある養豚場を見つけてくれました。 確か小西さんの知り合いの知り合い(つまり全く知らない人)がこの養豚場の方をなんとなく知ってて、神戸のちょっと変わった若者が数ヶ月間無給、住み込みで働いてみたいって言うてるらしいけどどない? 位の探りを入れて頂き、YESもNOも返事を貰わないまま直接農家に頼みに行きました。 この無謀な行為も実は、あえてアポなしという自分試しでした。この養豚場で数ヶ月働いた後、イタリアに行く事は決まってました。飛行機の片道チケットも買ってあって出発日も決まっていました。しかし僕は、イタリアに知り合いもいなければ、仕事のコネも無く修行先が見つかる保障も全くありませんでした。
この先自分は、外国に行って労働許可書も無く、下手なイタリア語で働かせてくれ!とかなり無茶な就職活動をしなければならない。日本で日本語でこの熱意が伝わらな、イタリアで伝わるはずが無いと養豚場のオッちゃん相手に無茶就職活動の練習を企んでいました。 都会の若造に百姓が出来るんかいな、の言葉で始まった面接は、僕が1週間かけて練り上げた青年の主張を披露する間もなく、1分ほどで終わりました。 変わっとんなー、でも気に入った。
来たい日の2-3日前に電話してくれたらいつからでもええよ、と即OK。ちょっと肩透かしでした。まあ、めでたく採用が決まり、3ヶ月ほどこちらでお世話になりました。続く。 

えー、半年振りです

えー、半年振りです。申し訳ございません。
前回は10ヶ月でしたので、若干の成長が見えます。
コラムの続きどないなっとんねんと、色々な方に怒られまして、ただ結構皆様楽しみにして下さってるとの事で,嬉しく思ってます。
ドスシバリスでのアルバイト時代、僕も小西シェフに丸焦げにされた1人で、見習いとシェフって人類とサルくらいの差があるなーと純粋に凹みました。ほとんど名前すら呼んでもらえないですからねー。それ以前にシェフは仕事中、日本語すらほとんど口にしないという職場でした。  数ヶ月洗い物だけで終わったアルバイトでしたが、サイコーの洗い場でした。戻ってくる皿を舐めまわし、残ってきた料理を他の見習いの洗い場の人と奪い合って貪り付いていました。その度、一目ぼれをした時のようにズギュンと脳ミソに電流が流れました。何度(この世にこんな旨いものかあるのか)と思ったか知れません。
その割りに、スペイン料理に転向しようとは何故か思わず、その後イタリア料理店に就職しました。そこで、約6年務め、途中2度イタリアに行く機会に恵まれました。 2度目のイタリアで、少々料理で天狗になってた僕は、久々に衝撃を受けました。ローマ近くのマリーノという、小さな町のワインの収穫祭に行ったのですが、なんとお祭りの日は町の噴水からワインがでて、しかもお客に振舞われるのです。そして極め付きは、町の人がドコからか豚の丸焼きを担いできたかと思うと、屋台でパニーノにして売っているのです。これにやられました。完全に焼きすぎてパサパサに見えるのに食べると口がベタベタになるくらいジューシーでした。今までの自分の理論と真逆で圧倒的なおいしさ! 自分が独立して店をする時は、こんな収穫祭の様な賑やかで、ウキウキした雰囲気で子豚の丸焼きをスペシャリテにしようと。。。 そこから、僕のイタリアでの修行と子豚の丸焼きの憧れがつのりにつのり、小さな炎になり胸を焦がしながら僕も他人に火傷を負わすようになっていました。
3話に続く。

皆様お気づきだと思いますが

皆様おお気づきだと思いますが、私、幼少の頃から日記、夏休みの宿題何一つ続いた事がありません。
 
このコラムも恥ずかしながら今年初更新です。
 
そのうちジラソーレのコラムが更新されるとユーロが上がるみたいな都市伝説的噂が流れてもいやなので、頑張ります。
今日2月9日は、ここ芦屋でも朝から雪で、かなり寒かったです。こんな冬のムッチャ寒い日は、イタリアの農家の友達の家で豚を1頭つぶし、サラミなんかを作る行事に参加した事を思い出します。
そう言えば以前コラムで昔養豚場で働いた事を少し書いて詳しくは、またの機会にと、そのままにしてたので今日はその話を。
これを語るには、僕のそれ以前の人生を数行で語らなければなりません。
 
第1話~コックになってすぐの十代~
幼少の頃からコックになると決めていた僕は、何の迷いも無く辻調に行きました。そこで、授業料がいくらとか全く気にせず漫画を読むか、友達と下の話をするかぐらいの学生生活をしておりましたが、このままじゃいかん!と勉強になりそうなレストランでバイトをしようと決意しました。しかし、当時18,9歳の僕には無茶苦茶好きな彼女がいて1秒でも会える時間があるようにと、地元でしか仕事を探しませんでした。10代の頃は所詮こんなもんです。
 
偶然見つけたバイトも、イタリア料理じゃなくてスペイン料理でした。まー似てる部分もあるやろと気楽な物でした。こんな甘ちょろい気分で入った店が、いまや伝説の西宮苦楽園、ドスシバリスでした。ここで僕は衝撃体験をしまくって、本当に心のそこからコックになりたいと思いました。ここの当時のシェフは、いまやエルポニエンテで大成功している小西シェフでした。いまだに師と仰いでいますが、当時の小西さんはまさに炎でした。周りを焦がし、焼き尽くしながらも自らは決して燃え尽きないパワーとエネルギーでそれはもう圧倒されました。
第2話に続く。 

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