COLUMNコラム
Tさん、Oさん、ついにコラムを更新する勇気が沸いて来ました。
Tさん、Oさん、ついにコラムを更 新する勇気が沸いて来ました。どうも2月と9月にやる気が沸くようです。
子豚の丸焼きを将来自分の店で出したい!と新たな目標ができ、イタリアに修行を行く決意を固めた頃の僕は、うっとうしいくらい熱い青年でした。 仕事している以外は料理書を貪り読み、休日はイタリア語の学校に午前、午後2つ通い、そのまま飲みにいっては朝までその日その場で知り合うおっさん達といろんなテーマで激論を交わし、そのまま仕入れに行く日々でした。 今考えるとありえない話ですが、当時1人で飲みに行って話し相手に困る事はまずなかったと思います。その店のマスターなり、横のお客さんなり誰かとは仲良くなれましたね。知らない方にもよくおごってもらいましたし、よく説教されました。 そんな環境、経験は将来商売するのに絶対大切だと、道場破りのように色んな店に飲みに行き、そこのマスターや常連さんと色んな話をしました。
これを書きながら懐かしく思っていますが、今の若いコックの見習いはこの辺が足りてないですね。
誰かに無茶苦茶憧れたり、何かしたくて堪らんことがあるとか、今これをするのが楽しくて堪らんとか。。。 世の中も大らかでしたね。酔っ払ってる若者が青年の主張を語りだしても、大人は笑って聞いてくれていました。 青年の主張はどんどんエスカレートし、そのうち興味は農業に向かいました。 原材料から作るのが究極や!とイタリア料理だし、トマト農家で働きたいなーという興味から農業のことを考え出し、最終的には子豚の仕入れルートをついでに開拓しようと養豚場で働いてみたいと思い出しました。 ここで養豚場探しを手伝ってくれたのが、前号に登場した小西シェフでした。
当時四国で仕事をしていた小西シェフに、イタリアに行く前に数ヶ月農家で働きたい、出来れば養豚場がいいと相談したら、ついに気が狂ったんかと大変喜んでくださり、すぐに愛媛県にある養豚場を見つけてくれました。 確か小西さんの知り合いの知り合い(つまり全く知らない人)がこの養豚場の方をなんとなく知ってて、神戸のちょっと変わった若者が数ヶ月間無給、住み込みで働いてみたいって言うてるらしいけどどない? 位の探りを入れて頂き、YESもNOも返事を貰わないまま直接農家に頼みに行きました。 この無謀な行為も実は、あえてアポなしという自分試しでした。この養豚場で数ヶ月働いた後、イタリアに行く事は決まってました。飛行機の片道チケットも買ってあって出発日も決まっていました。しかし僕は、イタリアに知り合いもいなければ、仕事のコネも無く修行先が見つかる保障も全くありませんでした。
この先自分は、外国に行って労働許可書も無く、下手なイタリア語で働かせてくれ!とかなり無茶な就職活動をしなければならない。日本で日本語でこの熱意が伝わらな、イタリアで伝わるはずが無いと養豚場のオッちゃん相手に無茶就職活動の練習を企んでいました。 都会の若造に百姓が出来るんかいな、の言葉で始まった面接は、僕が1週間かけて練り上げた青年の主張を披露する間もなく、1分ほどで終わりました。 変わっとんなー、でも気に入った。
来たい日の2-3日前に電話してくれたらいつからでもええよ、と即OK。ちょっと肩透かしでした。まあ、めでたく採用が決まり、3ヶ月ほどこちらでお世話になりました。続く。
えー、半年振りです
えー、半年振りです。申し訳ございません。
前回は10ヶ月でしたので、若干の成長が見えます。
コラムの続きどないなっとんねんと、色々な方に怒られまして、ただ結構皆様楽しみにして下さってるとの事で,嬉しく思ってます。
ドスシバリスでのアルバイト時代、僕も小西シェフに丸焦げにされた1人で、見習いとシェフって人類とサルくらいの差があるなーと純粋に凹みました。ほとんど名前すら呼んでもらえないですからねー。それ以前にシェフは仕事中、日本語すらほとんど口にしないという職場でした。 数ヶ月洗い物だけで終わったアルバイトでしたが、サイコーの洗い場でした。戻ってくる皿を舐めまわし、残ってきた料理を他の見習いの洗い場の人と奪い合って貪り付いていました。その度、一目ぼれをした時のようにズギュンと脳ミソに電流が流れました。何度(この世にこんな旨いものかあるのか)と思ったか知れません。
その割りに、スペイン料理に転向しようとは何故か思わず、その後イタリア料理店に就職しました。そこで、約6年務め、途中2度イタリアに行く機会に恵まれました。 2度目のイタリアで、少々料理で天狗になってた僕は、久々に衝撃を受けました。ローマ近くのマリーノという、小さな町のワインの収穫祭に行ったのですが、なんとお祭りの日は町の噴水からワインがでて、しかもお客に振舞われるのです。そして極め付きは、町の人がドコからか豚の丸焼きを担いできたかと思うと、屋台でパニーノにして売っているのです。これにやられました。完全に焼きすぎてパサパサに見えるのに食べると口がベタベタになるくらいジューシーでした。今までの自分の理論と真逆で圧倒的なおいしさ! 自分が独立して店をする時は、こんな収穫祭の様な賑やかで、ウキウキした雰囲気で子豚の丸焼きをスペシャリテにしようと。。。 そこから、僕のイタリアでの修行と子豚の丸焼きの憧れがつのりにつのり、小さな炎になり胸を焦がしながら僕も他人に火傷を負わすようになっていました。
3話に続く。
皆様お気づきだと思いますが
皆様おお気づきだと思いますが、私、幼少の頃から日記、夏休みの宿題何一つ続いた事がありません。
このコラムも恥ずかしながら今年初更新です。
そのうちジラソーレのコラムが更新されるとユーロが上がるみたいな都市伝説的噂が流れてもいやなので、頑張ります。
今日2月9日は、ここ芦屋でも朝から雪で、かなり寒かったです。こんな冬のムッチャ寒い日は、イタリアの農家の友達の家で豚を1頭つぶし、サラミなんかを作る行事に参加した事を思い出します。
そう言えば以前コラムで昔養豚場で働いた事を少し書いて詳しくは、またの機会にと、そのままにしてたので今日はその話を。
これを語るには、僕のそれ以前の人生を数行で語らなければなりません。
第1話~コックになってすぐの十代~
幼少の頃からコックになると決めていた僕は、何の迷いも無く辻調に行きました。そこで、授業料がいくらとか全く気にせず漫画を読むか、友達と下の話をするかぐらいの学生生活をしておりましたが、このままじゃいかん!と勉強になりそうなレストランでバイトをしようと決意しました。しかし、当時18,9歳の僕には無茶苦茶好きな彼女がいて1秒でも会える時間があるようにと、地元でしか仕事を探しませんでした。10代の頃は所詮こんなもんです。
偶然見つけたバイトも、イタリア料理じゃなくてスペイン料理でした。まー似てる部分もあるやろと気楽な物でした。こんな甘ちょろい気分で入った店が、いまや伝説の西宮苦楽園、ドスシバリスでした。ここで僕は衝撃体験をしまくって、本当に心のそこからコックになりたいと思いました。ここの当時のシェフは、いまやエルポニエンテで大成功している小西シェフでした。いまだに師と仰いでいますが、当時の小西さんはまさに炎でした。周りを焦がし、焼き尽くしながらも自らは決して燃え尽きないパワーとエネルギーでそれはもう圧倒されました。
第2話に続く。
すいません。10ヶ月もコラムをほったらかしにしていました。
すいません。10ヶ月もコラムをほったらかしにしていました。
今年の1月下旬に移転してからこの10ヶ月は、最高にハッピーな事も最高に辛い事も経験し、僕の人生の中で最も中身の濃い期間だったと思います。移転してからしばらくは、移転前のレベルになかなか戻れず至らない事も多々ありましたが、この9月からはサービスにイタリア人マネージャーが加わり、特にサーヴス面は向上したと思います。このマネージャーを少し紹介しますと、ナポリ出身のレストランサーヴィス暦22年の大ベテラン、在日7年で日本語も達者です。数年前に彼と知り合い、すぐに意気投合し、いずれ一緒に働ければとお互い思っておりまして今回の移転は物件選びの段から参加してもらっていましたが、諸事情で9月からの勤務になりました。
これ以外で最近のニュースと言いますと、まずチンバリーのエスプレッソマシーンを入れました。豆はナポリのパッサラックアです。これをマネージャーのマウリッツィオが完璧に使いこなします。あと店の入り口すぐに据付の巨大ワインセラーを設置しました。むっちゃかっこいいです。ワインリストも作り直し、南イタリアワインだけで150種はあると思います。北のワインも少し置いてます。後、今年の夏ナポリでお皿をたくさん買ってきました。地方料理に良く合う素敵な皿です。これらのすべてをひっくるめて新たに初心に戻りひとつのシンプルなコンセプトをもっています。~オステリア ナポレターナ~ ナポリの料理とナポリのワイン。北イタリアワインの方が好き、トスカーナ料理が好きという方がたくさんいるのも存じています。でも僕とマウリツィオは南イタリアの料理とワインと文化をこよなく愛しています。僕の理想のレストラン作りが本格的に始まりました。
時間をかけて黒光りする店になるよう頑張ります。
皆様、明けましておめでとうございます。
皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さて、去年の年末にご報告申し上げましたように、1月23日(火)に芦屋市の大原町に移転いたします。
非常にたくさんの方に祝福していただき、一緒にお喜び頂き、この移転を楽しみにして頂き感無量です。
ご期待にお答えできるよう精一杯がんばります。